昭和45年11月30日 夜の御理解
今月ほどその月々の焦点、信者一同がその焦点に添うての信心が出来た月はなかったと思われるほど、一心の真を捧げての願いというのが、期せずして、幹三郎の入院そして、ああいう大手術を受けまして、その前後からまぁ白熱化と申しますか、皆さんの信心がそこに焦点を置かれての一生懸命の、まぁご信心であったと。幹三郎の場合でもまぁ日々、まぁ薄紙を剥ぐ様にと普通は申しますけれども。
薄紙どころではありません。もう何かしらもう来る日来る日、家内がお礼に出てまいりますたんびに、ゴロゴロよくなっていっておると言った様なね。今日は、今日当りそのう、昨日の事で御座いまして、今日お届けしておりましたが、もう一人で治療受けに、まぁ名前を呼ばれると一人でいったのですが帰ってから、こりゃもうやんがてここに入れ歯ばしてよかごとなったちいってですね。
ま、えらいそのう早く良くなりよると、先生がたまがっておられる様なふうにして言われた。だからあのうまその子も入れ歯を入れたら、まぁこう少しかっこ良くなるだろうと、言う様に成ったと言うて来ておる。と言う様にまぁとにかく一心の真を捧げて願う所から、もう半ばその事のお礼を、皆さんが一生懸命申しておられると言った様な状態の、所になっておるですね。来月のま焦点になります、御礼のための精進、ね。
もうそれ御礼のためにもうもうぼちぼち、来月かけられてからの信心ができとられると言った様な感じですけどね。日々が幹三郎の状態様子を聞かれては、いつもおかげを頂いて有り難いというおかげ。ですから勿論そうした幹三郎の事によって、お互いが期せずしてどうしてこの様によって一丸になった、白熱したような信心や願いの為に出来るかと言う事が、有り難いのですけれどもその信心がですね、そういう信心が、でけたと言う事の方がもっと有り難い事なんですよね。
だからあのう本当にあのう、今日の月末のお礼を申し上げさして頂くということは、そのことが、一つ信心(?たしかる)お礼にならして頂かなければならないと、思わして頂いたと言う様な、今日も家内が、光橋先生から手紙を、手紙をことづかってきとったけども。それを読ませて頂いて、中に三橋先生が書いてあります事は丁度、今あの金光大神というんならあのうご本の、金光あれだけの時間があるんですよね。
あれを勉強する時間。それが丁度教祖様がお二人の子供様が疱瘡にかかられたり、それからあのう宇之丞様後の四神様が、42の二つ子はいけないというので、名前を変えられたことからお気付けを頂かれて、ひどい状況重態になられたです。その所が丁度習わして頂いておりました。合楽の親先生が、もうホントに教祖様そのままのご信心をして下さっておると言う事が。
この様にも的確におかげを頂いておるった自分が、習わせて頂いて思うたけど、まぁ勉強さして頂いておる所が丁度そこのところで御座いましたが、というてそのことを、こう書いており、おるようなホントに有り難い、まぁおかげだというわけですね。夕べも歯が痛むと言った様な事なかったけども、丁度幹三郎さんがま通知を受けるとた時には、自分自身ここに丁度三日間、やはり痛んで休んだっちゅうことはないのに、熱が出たり痛んだりして、休まして頂いて。
まぁなんとはなしに、お祭り替えでも頂いておったような気持ちで、そのことを幹三郎さんのことの願いのために、焦点を置いて修行させて頂いたと言った様な事が書いてございましてね。見せて頂いてね思うんですよ。もう三橋先生ならずとも、もう沢山の人が幹三郎の事の為に修行にあがったり、またはお祭り替えと思わにゃおれないような、おかげを頂かれたりして、したなかに。今月、(?こそは)、今月を終わらせて頂くということは、ホントにもう有り難い
。とくに信心がそこに信心の信心の稽古と仰るが、その稽古をさせて頂く対象がね、あのう真に迫ったというか、そうしなければおられないと言う様な中に、おかげを頂かして頂いたということをね。まぁ有り難いと思わして頂き。うんと昼四時の御祈念のときに、手紙を読ませて頂いて、これは読んだだけでは意味も何もわからないわけだと思うですけれども。私のこの気分ですけれどもね。「(?かたかおる)教祖伝記や霧の中」と言った様な句が、心の中に浮かんだん
(途中でテープが切れてます。)